甲斐地を散策 その3 芦安堰堤(えんてい)
この地では戦国武将として有名な武田信玄が造らせたという
信玄堤(しんげんでい)が有名である。
また治水の難しい地域である。四方に3000メートル級の急峻な南アルプスがあり、
雨が降ると崖くずれとともに川の水が一度に大量に流れる地域である。
信玄堤は、日本の長野県にある堤防で、信濃川を中心にして形成された長野盆地の
洪水対策のために築造された歴史的な堤防です。
信玄堤は全長約12キロメートルにも及び、川岸には桜並木が植えられ、春には桜の名所
としても知られています。
この地域は歴史的にも様々な治水対策が取られて来た。
芦安堰堤(あしやすえんてい)は、日本の長野県と新潟県の境
にある、信濃川に建設された砂防ダムです。
1957年に完成し、高さ157メートル、長さ492メートルのアーチ式
コンクリートダムとしては日本最大級のものの一つです。
この砂防ダムが日本の標準になりました。
堰堤は電力発電や灌漑、洪水調節などのために使用されており、
周辺地域の開発にも貢献しています。
また、周囲の景観が美しく、観光名所としても知られています。
堰堤は階段式に造られており、土石流の流れを緩やかにする働きをしている。

御勅使川(みだいがわ)は、甲斐駒ヶ岳から南東に連なる南アルプス連山の唐松峠付近、標高(1600メートル)の地点に源を発し、甘利山(1672メートル)・千頭星山 (2139メートル)・大崖頭山(2186メートル)・高谷山(1842メートル・櫛形山(2052メートル)によって囲まれ、急峻な山間を北東に流れ、芦安を経て白根・八田に入り、流域に扇状地を形成して富士川に注ぐ流路延長(約18.5キロメートル)・流域面積(72.4平方キロメートル)の河川である。
流域内の地質は、上流部は主として御坂層で、その中に脆弱な火成岩地帯があり、所々に温泉作用を受けた薄い地層があって、この層を境にして地すべりを生ずるほか、本川沿岸に露出する部分は極度の風化崩壊の過程にある。
芦安堰堤は下流の土砂災害を防ぐため内務省直轄砂防事業として施行した砂防堰堤で、日本で初めてセメントを使用した堰堤であり昭和七年より山梨県が移管を受け管理している。
芦安堰堤は下流の土砂災害を防ぐため、内務省直轄砂防事業として施行した砂防堰堤で、日本で初めてセメントを利用した堰堤であり、国登録文化財となっている。(南アルプス市のHPより)
- 2023/03/04(土) 16:29:20|
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つくば道 北条「日本の道百選」にも選ばれている『つくば道』は、徳川三代将軍・家光の時代に
筑波山の参詣道として開設されました。

北条といえば、日本の道百選「つくば道」出発の地として有名です。
徳川家康は筑波山をあがめ、中禅寺(現在の筑波山神社)を祈願所に定めました。江戸城からみると筑波山が北東の方角にあり鬼門にあたることから、「鬼門の護り」としたのです。
寛永3年(1626年)三代将軍家光は、堂社を一新する工事にとりかかります。この時、資材運搬路として整備されたのが「つくば道」です。
北条仲町には、高さ3mを超える「つくば道道標」が立っています。
歩いて筑波山神社まで登ぼると距離は約4km、所要時間は1時間強となります。


北条の町から筑波山に至る道しるべである。
現在でも道標や土蔵造りの家並みなどに江戸時代の面影を感じさせる風景が残り、
往事の信仰の道を今に伝えています。
北条のまちを散策する際、ぜひ立ち寄りたいのは「北条ふれあい館」。

風格と風情ある佇まいの「北条ふれあい館」(旧田村呉服店)は、国登録有形文化財のひとつです。
街の情報発信や訪れる人との交流拠点として、無料休憩所の役割を担っています。



北条ならびに筑波山麓地域の情報を入手したり、北条米や味噌、醤油などの地元物産品やオリジナルグッズを購入したりすることができます。
町の通りを一本裏通りに回ると神社や寺院が並んでいる。
その中でも養蚕神社は総本社、全国から参拝が絶えなかったそうである。
近隣の養蚕をやっている各県から参拝に訪れたそうである。蚕影神社「常陸国の三蚕神社」の一社で、全国に祀られている蚕影神社の総本社。
国内における養蚕の創始にまつわる縁起が伝承されており「日本一社」を称する。御由緒
養蚕・製糸・機織技術伝来の地として養蚕守護の神を祀った神社で、その創建時期については諸説ある。
境内掲示では成務天皇の御代(131~190年)、筑波国造として赴任した阿閉色命が創祀したとしている。
別説を一部照会すると、後述する金色姫伝説においては欽明天皇の御代(539~571年)、筑波郡案内記(1902年刊)では926(延長4)年、筑波国造権太夫良平による創建とし、柳沢鶴吉が著した常山総水(1908年刊)には、崇神天皇の御代(BC97~BC30年)に奉祀され、蚕影山大権現と号した、などとある。
筑波国造が創祀に関わった共通項をもつ筑波山神社との関係も深い。
筑波山神社の例大祭「御座替祭」で執り行われる「神衣祭」「神幸祭」では、絹で織った神衣を大神の依り代とするが、往時は蚕影神社で祓い清めた絹が用いられた。
往古から養蚕の神、養蚕農家に崇敬を受け、日本養蚕の創始として蚕影山信仰は全国各地に流布し御分霊が祀られた。
このことから当社の御神札に「日本一社」と拝記される。


日向廃寺跡宇治の平等院鳳凰堂のように左右対称の造りであったとのことである。日向廃寺跡は城山(別名は多気山、標高129.4m)の麓、標高32.0mのつくば市北条字日向に立地。昭和54年に町営住宅の共同汚水槽建設で巴文軒瓦と円形柱座を有する花崗岩製の基礎が見つかり、同年と翌年の2度にわたり、筑波町と筑波大学歴史・人類学系が発掘調査を実施。およそ2mの堆積層下に建築面が見つかった。その堆積層は城山の一部が崩れ遺跡を覆ったと考えられ、遺構は良く保存されていた。遺構は3間×4間の方形の列柱を有し、高さ約30cmの基壇を持つ中央堂と、高さ約15cmの基壇を持つ東西の単廊部と複廊部からなる。およそ前後3回の改築が認められる。瓦が葺かれ、加工された礎石を有することから寺院跡と考えられ、軒瓦の型式から平安時代末期から鎌倉時代初頭と推定。宇治平等院鳳凰堂のような臨池式伽藍(阿弥陀堂)が想定される。


今回は町のガイドさん二人に案内して頂き、歴史散策をしました。
- 2023/01/28(土) 22:41:22|
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