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あべちゃんの日記

いつもとチョッと違う出来事を記録して、友人、家族に伝えます。

甲斐地を散策 その4 芦安の町

甲斐地を散策 その4 芦安の町

芦安集落は、日本の山梨県南アルプス市にある、歴史的な集落です。
江戸時代には、山間部に位置するこの地域は、材木や農産物の生産が盛んであり、
集落には多くの家屋や倉庫が建てられました。
現在では、その歴史的な建造物や、美しい自然に囲まれた散策路が人気を集めています。


芦安

芦安02

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芦安の町は地元の人にも案内を頂きました。

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芦安集落には、古くから信仰されている道祖神があります。
道祖神は、道路の守護神として信仰されており、交通安全や
商売繁盛を祈願するために、多くの人々に愛されています。


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小曽利道祖神は、集落の守り神として信仰されてきた道祖神のひとつで、
境内には大小さまざまな石像が並び、神聖な雰囲気を漂わせています。
小曽利道祖神は、集落周辺の山々や森林を守る神として信仰されており、
昔から木材の伐採や山林の開発を行う際には、必ず神への供養が行われました。
また、この地域では、豪雪地帯であるため、雪の降り積もる中でも、小曽利道祖神
に祈願して安全に過ごすことができるとされています。


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芦安集落には、「六地蔵(ろくじぞう)」と呼ばれる地蔵尊があります。
六地蔵は、芦安集落の中心部にある小高い丘の上に、六体の地蔵像が
並んで祀られたものです。
寛永年間(1624年-1645年)に建立されたとされ、周囲には古い墓地も残っています。
六地蔵は、道路の安全や火災などの厄除け、子宝や長寿を願う信仰があり、
多くの人々に親しまれています。


このほかにも神社仏閣と石祠、道祖神が祀られており、
信仰と伝説に彩られた山里の町である。
何時間あっても足りない魅力的な町である。

  1. 2023/03/17(金) 19:03:20|
  2. 歴史
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甲斐地を散策 その3 芦安堰堤(えんてい)

甲斐地を散策 その3 芦安堰堤(えんてい)  

芦安

この地では戦国武将として有名な武田信玄が造らせたという
信玄堤(しんげんでい)が有名である。
また治水の難しい地域である。四方に3000メートル級の急峻な南アルプスがあり、
雨が降ると崖くずれとともに川の水が一度に大量に流れる地域である。
信玄堤は、日本の長野県にある堤防で、信濃川を中心にして形成された長野盆地の
洪水対策のために築造された歴史的な堤防です。
信玄堤は全長約12キロメートルにも及び、川岸には桜並木が植えられ、春には桜の名所
としても知られています。

この地域は歴史的にも様々な治水対策が取られて来た。

芦安堰堤(あしやすえんてい)は、日本の長野県と新潟県の境
にある、信濃川に建設された砂防ダムです。
1957年に完成し、高さ157メートル、長さ492メートルのアーチ式
コンクリートダムとしては日本最大級のものの一つです。
この砂防ダムが日本の標準になりました。
堰堤は電力発電や灌漑、洪水調節などのために使用されており、
周辺地域の開発にも貢献しています。
また、周囲の景観が美しく、観光名所としても知られています。



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堰堤は階段式に造られており、土石流の流れを緩やかにする働きをしている。

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御勅使川(みだいがわ)は、甲斐駒ヶ岳から南東に連なる南アルプス連山の唐松峠付近、標高(1600メートル)の地点に源を発し、甘利山(1672メートル)・千頭星山 (2139メートル)・大崖頭山(2186メートル)・高谷山(1842メートル・櫛形山(2052メートル)によって囲まれ、急峻な山間を北東に流れ、芦安を経て白根・八田に入り、流域に扇状地を形成して富士川に注ぐ流路延長(約18.5キロメートル)・流域面積(72.4平方キロメートル)の河川である。
流域内の地質は、上流部は主として御坂層で、その中に脆弱な火成岩地帯があり、所々に温泉作用を受けた薄い地層があって、この層を境にして地すべりを生ずるほか、本川沿岸に露出する部分は極度の風化崩壊の過程にある。
芦安堰堤は下流の土砂災害を防ぐため内務省直轄砂防事業として施行した砂防堰堤で、日本で初めてセメントを使用した堰堤であり昭和七年より山梨県が移管を受け管理している。
芦安堰堤は下流の土砂災害を防ぐため、内務省直轄砂防事業として施行した砂防堰堤で、日本で初めてセメントを利用した堰堤であり、国登録文化財となっている。(南アルプス市のHPより)

  1. 2023/03/04(土) 16:29:20|
  2. 歴史
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甲斐地を散策 その2 芦安集落

甲斐地を散策 その2 芦安集落

南アルプス市の芦安地域は南アルプス登山の玄関口である。
登山愛好家ならばその名を聞いたことがあると思う登山口である。


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町の中心から南アルプス方向に突き進むように、谷間を進んで行くと集落が見えてくる。
その町の奥深くに山岳文化と貴重な自然のミュージアム 南アルプス市芦安山岳館がある。


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山岳文化と貴重な自然のミュージアム 南アルプス市芦安山岳館の全景である。

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はじめにスタッフから芦安山岳館の概要の説明があった。

南アルプス市芦安山岳館は、2003年3月21日に開館しました。
山岳文化の発掘と研究・継承、自然保護や安全登山の普及、山を仲立ちとした
さまざまな交流の実現を目的としている。
氷河時代から数万年を結び付いて文化や産業、技術を育ててきた里山である。
芦安地域は自然、文化ともに魅了に満ちた地域である。

また、この施設は、県産材の利用促進を図る事を目的としたモデル的施設である。
内装は木材を活用して造られている。


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山岳図書コーナー
山岳が生む豊かな精神世界は、古くから多くの書物を残している。
それらを収集、保存、展示し、研究者にも開放している。
全国一の山岳関係の図書館である。


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南アルプスの登山客はここで車を降りて、バス・タクシーに乗り換えてさらに進む。
宿泊の場所でもある。

  1. 2023/03/03(金) 10:48:36|
  2. 登山
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甲斐地を散策 その1 身延山久遠寺

甲斐地を散策 その1 身延山久遠寺

身延山久遠寺

由緒
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)公の領地でした。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。

翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。

その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。
(身延山久遠寺 HPより抜粋)

今回の散策は身延山全体を時間をかけて散策しました。
2名の方に現地の案内を頂きました.。
普段は散策する人が少ない御廟まで足を延ばしました。


map-wide身延山

身延山全体の配置図です。
赤の線で行程を示しました。


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「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門には、
79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額がかかる。


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三門から本堂へと続く287段の石段。
登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、
南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、
7区画に分けられている。

この階段を昇るのではかなりの時間がかかるので、
頂上にある奥之院思親閣までケーブルカーで行った。


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奥之院思親閣は身延山の山頂(標高1153メートル)にあります。
日蓮聖人は身延在山の9年の間、故郷のことを思い出されては、
西谷のご草庵より50丁の道なき道を登られ、
遙かに房州小湊のご両親と師の道善房を追慕されました。


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祖師堂
思親閣祖師堂は“親を思うお堂”という意味で名付けられており、身延町指定文化財です。

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北側に連なる南アルプス連峰 北岳も望める。

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五重塔
2009年5月、明治8年の大火による焼失より134年ぶりによみがえった宝塔。
木材は全て国産を使用し、設計から工法にいたるまで400年前に建てられた
元和の塔を復元・再建した。


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本堂
1985年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建された。
間口32メートル、奥行51メートル。一度に1,500人の法要を奉行できる。


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次に向かったのは御廟のある西地区である。

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祖廟
日蓮聖人ご入滅時に建立された五輪の墓を塔内に収め、
地下の龕室には御霊骨の一部を奉安する。



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日蓮聖人が住まわれた御草庵を復元したもの。
聖人は身延で過ごされた足かけ9年間、
この御草庵で法華経の読誦と門弟の教育に終始した。


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御草庵跡
日蓮聖人が住まわれた御草庵の跡地。
手前の碑文は没後、この地に埋葬するようにと遺言した。
  1. 2023/02/28(火) 20:16:11|
  2. 歴史
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つくば道 北条

つくば道 北条

「日本の道百選」にも選ばれている『つくば道』は、徳川三代将軍・家光の時代に
筑波山の参詣道として開設されました。

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北条といえば、日本の道百選「つくば道」出発の地として有名です。

徳川家康は筑波山をあがめ、中禅寺(現在の筑波山神社)を祈願所に定めました。江戸城からみると筑波山が北東の方角にあり鬼門にあたることから、「鬼門の護り」としたのです。
寛永3年(1626年)三代将軍家光は、堂社を一新する工事にとりかかります。この時、資材運搬路として整備されたのが「つくば道」です。

北条仲町には、高さ3mを超える「つくば道道標」が立っています。
歩いて筑波山神社まで登ぼると距離は約4km、所要時間は1時間強となります。

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北条の町から筑波山に至る道しるべである。

現在でも道標や土蔵造りの家並みなどに江戸時代の面影を感じさせる風景が残り、
往事の信仰の道を今に伝えています。

北条のまちを散策する際、ぜひ立ち寄りたいのは「北条ふれあい館」。

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風格と風情ある佇まいの「北条ふれあい館」(旧田村呉服店)は、国登録有形文化財のひとつです。
街の情報発信や訪れる人との交流拠点として、無料休憩所の役割を担っています。

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北条ならびに筑波山麓地域の情報を入手したり、北条米や味噌、醤油などの地元物産品やオリジナルグッズを購入したりすることができます



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町の通りを一本裏通りに回ると神社や寺院が並んでいる。
その中でも養蚕神社は総本社、全国から参拝が絶えなかったそうである。
近隣の養蚕をやっている各県から参拝に訪れたそうである。


蚕影神社

「常陸国の三蚕神社」の一社で、全国に祀られている蚕影神社の総本社。
国内における養蚕の創始にまつわる縁起が伝承されており「日本一社」を称する。


御由緒
養蚕・製糸・機織技術伝来の地として養蚕守護の神を祀った神社で、その創建時期については諸説ある。
境内掲示では成務天皇の御代(131~190年)、筑波国造として赴任した阿閉色命が創祀したとしている。
別説を一部照会すると、後述する金色姫伝説においては欽明天皇の御代(539~571年)、筑波郡案内記(1902年刊)では926(延長4)年、筑波国造権太夫良平による創建とし、柳沢鶴吉が著した常山総水(1908年刊)には、崇神天皇の御代(BC97~BC30年)に奉祀され、蚕影山大権現と号した、などとある。
筑波国造が創祀に関わった共通項をもつ筑波山神社との関係も深い。
筑波山神社の例大祭「御座替祭」で執り行われる「神衣祭」「神幸祭」では、絹で織った神衣を大神の依り代とするが、往時は蚕影神社で祓い清めた絹が用いられた。
往古から養蚕の神、養蚕農家に崇敬を受け、日本養蚕の創始として蚕影山信仰は全国各地に流布し御分霊が祀られた。
このことから当社の御神札に「日本一社」と拝記される。

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日向廃寺跡

宇治の平等院鳳凰堂のように左右対称の造りであったとのことである。

日向廃寺跡は城山(別名は多気山、標高129.4m)の麓、標高32.0mのつくば市北条字日向に立地。昭和54年に町営住宅の共同汚水槽建設で巴文軒瓦と円形柱座を有する花崗岩製の基礎が見つかり、同年と翌年の2度にわたり、筑波町と筑波大学歴史・人類学系が発掘調査を実施。およそ2mの堆積層下に建築面が見つかった。その堆積層は城山の一部が崩れ遺跡を覆ったと考えられ、遺構は良く保存されていた。遺構は3間×4間の方形の列柱を有し、高さ約30cmの基壇を持つ中央堂と、高さ約15cmの基壇を持つ東西の単廊部と複廊部からなる。およそ前後3回の改築が認められる。瓦が葺かれ、加工された礎石を有することから寺院跡と考えられ、軒瓦の型式から平安時代末期から鎌倉時代初頭と推定。宇治平等院鳳凰堂のような臨池式伽藍(阿弥陀堂)が想定される。

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今回は町のガイドさん二人に案内して頂き、歴史散策をしました。
  1. 2023/01/28(土) 22:41:22|
  2. 歴史
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